- タイでは言論弾圧や生活苦を背景に若者の反政府デモが広がっており、日本のアニメキャラクター「ハム太郎」がそのシンボルになっている
- 反政府デモで日本のアニメが用いられることは、ハム太郎以外の作品でも、香港やアメリカなどでもみられる
- そこにはSNSなどで緩やかに結びついた現代の抗議デモが、求心力を高めると同時に「エライ大人たち」と自分たちを区別するためにアニメキャラを用いる様がうかがえる
日本アニメは製作者の意図を超え、各国で様々な影響を及ぼしている。タイでは愛嬌あるハムスターのキャラクターが抗議デモの先頭に立っている。
「大好きなのは納税者の血税」
タイでは事実上の軍事政権による言論弾圧やコロナによる生活苦を背景に、若者による抗議デモが広がっている。そのなかで脚光を浴びているのが、日本アニメ「とっとこハム太郎」だ。
デモ参加者はハム太郎のオープニング曲にある「大好きなのはヒマワリのタネ」という歌詞を「大好きなのは納税者の血税」と替え歌にするなどして政府を批判し、議会の解散を求めている。
また、ぬいぐるみなどハム太郎グッズを抱えたデモ参加者もおり、さらに首都バンコクにある「民主主義記念碑」の周囲を集団でグルグル回る様子が、まるで回し車のハムスターのようだともいわれる。
ハムスターの仲間「ハムちゃんず」の友情と小さな大冒険を描いたこの作品は、日本で2000~2006年にテレビ東京系で放映された。タイでは2005年からTV放送されている。
作品の世界観からすると場違いな感が否めないが、そのギャップがかえって関心を集め、ロイター通信やインデペンデントなど大手メディアもこれを報じている。
ハム太郎だけではない
念のためにいうと、抗議デモのシンボルとして日本アニメのキャラクターが用いられることは、これまでにもあった。それが最も目立つのは香港だ。
香港デモでは一部の参加者が人気マンガ「ワンピース」にインスピレーションを得たとみられるポスターやペイントで抗議の意思を示した。権威や権力に縛られず、自由に生きようとする「麦わらの一味」への共感があったのかもしれない。
この他、香港ではやはり各国でカリスマ的人気を誇る「新世紀エヴァンゲリオン」も、しばしば登場している。デモ参加者の一人は英字メディアQuartsのインタビューに、エヴァンゲリオンの主人公の名を出して答えている。「自分たちはみんなシンジと同じように困惑している。なぜ自分が?何をすべきか?どうやって全能の敵と戦うべきか?…僕らはみんなシンジなんだ」。
アジアだけではない。
やはり昨年末から抗議デモの続く南米チリでは、「鬼滅の刃」に登場するキャラクター、嘴平伊之助(はしびらいのすけ)が警官と揉み合いになるイラストなどがSNSで拡散した。
また、米国では、中南米からの移民の取り扱いが人道に反すると抗議するフィラデルフィアの男性が、Facebookで「移民・関税執行局に乗り込もう」と呼びかけたが、そこでは「ナルト疾風伝」に登場する、前傾姿勢で両手を後ろに垂らしたあの独特の走行スタイルで走る人々の写真が写し出されている。警戒厳重な「敵」のアジトに乗り込むイメージが、ナルトの世界と重ねられているとみられる。
架空のキャラクターの求心力
筆者は約20年にわたって政治変動を調査・研究してきた。一度できた体制やシステムがなぜ、どのように崩壊したり、変化したりするかが、本来のテーマだ。その立場からすると、この現象には興味深いものがある。
革命や抗議デモで指導者の肖像画が掲げられることは珍しくない。しかし、小説、映画、演劇といった従来の他のコンテンツは、政治の不正や社会の矛盾を描き出し、糾弾することはあっても、そのキャラクターや世界観が抗議デモに投影されることはほとんどなかった。ロシア革命で『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフのイメージ画が掲げられたといった話は聞いたことがない。
ここには特定の指導者や明確な組織構造をもたず、SNSなどで緩やかに結びついた、現代の抗議デモのあり方が象徴されているように思われる。仮想空間においては、リアルな指導者やその演説より、みんなが知っているキャラクターや世界観の方が求心力があるのかもしれない。
もちろん、アニメ作品を政治活動に借用することには、様々な意見があるだろう。しかし、それらを一旦置くとして、各地の抗議デモでその姿がみられることは、結果的に日本アニメが浸透していることを図らずも浮き彫りにしたことは間違いない。
とはいえ、なぜハム太郎か?
それにしても、である。なぜタイではハム太郎が登場したのか。
デモ参加者の1人は「歪んだ社会構造のもとで将来への見通しが立たない自分たちをカゴのなかのハムスターに見立てた」と説明している。
ユーモアとしては理解できる。とはいえ、香港など他の場合で用いられた作品では「権威への抵抗」「不条理な世界への抗議」といった内容が多かれ少なかれ描かれていた。そのため、デモ参加者をインスパイアしやすかったかもしれない。
これらと比べて、政治の不正や社会の混迷とは全く無縁のハム太郎を抗議デモにもちだすことは、いくらなじみがあったとしても、ギャップが大きいように思われる。この疑問を周囲の若いアニメファンに投げかけると、意外な回答が返ってきた。「ギャップがあるからいいのでは」というのだ。
それによると、日本でも一時期、明るく健全なイメージのキャラクターが毒のあるセリフを吐いたりするイラストがSNSで流行った。情報機器の発達で画像の加工が簡単にできるようになったことが背景にあるが、そこではギャップが大きいほどインパクトが大きく、ウィットに富んだものとなるというのだ。
なるほど。面白い解釈だ。
この観点からすれば、この上なく健全なハム太郎だからこそ、社会の矛盾を糾弾する場にふさわしくなる。だとすると、ギャップの大きいハム太郎をあえて持ち出すことで、そういったことを理解しようともしない「エライ政治家」と「自分たち」を識別するコードにもなるかもしれない。
さらに、その場合、タイの若者は日本のサブカルチャーの深い部分まで吸収していることにもなる。
もちろん、これは一つの仮説だが、政治変動を学ぶ一学究としては、今後の研究テーマになる。
日本政府のジレンマ
最後に一つつけ加えると、各国の抗議デモで日本アニメが利用されることは、日本政府にとって難しい問題にもなる。
文化の輸出を目指す日本政府は、アニメやマンガを海外で普及しようとしてきた。これは政府にとって、魅力によって味方を増やすソフトパワーや各国の市民に直接アプローチする広報外交(パブリックディプロマシー)を意識したものだ。
その一方で、香港デモに全く言及しないことに象徴されるように、日本政府は相手国の人権問題などにかかわることを極力避けてきた。内政不干渉の原則をこれ以上ないほど厳格に尊重しているからだ。
この日本政府にとって、日本アニメが各国の若者をインスパイアし、権威主義的な政府に対する抗議のシンボルになることは、むしろ好ましくないだろう。ここに、政府とコンテンツのギャップがある。
近年、中国でも日本アニメは市場規模を拡大させているが、中国政府からはしばしば日本アニメを「文化侵略」と捉える声も漏れている。中国に限らず、各国の抗議デモで日本アニメのキャラクターがこれまで以上に目につくようになれば、日本アニメそのものが外交的なテーマにさえなり得る。
日本のアニメやマンガには、権力にまつろわぬ人々や世の不条理を打破しようとする人々が描かれることも少なくなく、ハム太郎のようにそうでなくとも各地の抗議デモをインスパイアするだけの力も秘めている。これを日本政府はどう扱うか。このジレンマもまた、今後の研究課題になるだろう。
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2020-07-28 23:40:12Z
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